2012年5月14日午前2時23分――
暗闇の中で目を開た麻友は、布団の中で腕をごそごそ動かし、パジャマの中に手を入れる。アンダーヘアーの人工芝のような弾力で膨らんだショーツを触る。寝ている間に汗を帯び、コットン生地のショーツはうっすら湿った感じはしたが、それは絶望の湿りとはまったく異なるものだった。
(よし!)
掛け布団から身体を抜いてトイレに起きる。
明日からは修学旅行だ。
麻友は体罰治療が効果を発揮し、3月29日の春休み中の木曜日を最後に、まったく失敗していなかった。
「明日からは疲れるだろうから、今日はたっぷり寝なさいね。今日だけはおねしょをしても治療はしないからね」
寝る前に母親に言われ、九時過ぎには寝たというのに、今日だって無事に起きることができた。
(きっと行ける!)
麻友はうきうきしながら、家族が寝静まった家の中をトイレに向かって歩いた。
2012年5月17日午前6時12分――
凛菜が横で寝ている紫帆を起こした。
「どうする、これ」
紫帆は擦った目を点にして驚く。
「ちょ、ありえないよー」
ぷーんとした、水を流していない不潔なトイレのような臭いがしている。
掛け布団からはみだしている麻友の脚は、ジャージがおしっこで濡れて色がくすんでいる。
「麻友って小学校の時のあだ名が、おねしょ女、だったんだよ。六年の時でも毎晩おねしょしてるって有名だった」
麻友と同じ小学校だった凛菜が紫帆に聞かせるように言う。
「それは知ってるけど、でも、ありえなくない? もう中三だよ」
「普通はそうかもしんないけど、六年で毎晩ってのもあり得ないでしょ。麻友、なにかの病気じゃないのかな」
「だよね。でもどうしようか?」
紫帆が汚いものをつまむように、親指と人差し指で麻友の脚に沿って、布団を捲り上げた。白い旅館のシーツは麻友の脚を伝って灰色に濡れている。太ももから尻にかけて大きく濡れ、シーツは透けて布団の花柄を浮かび上がらせていた。
「やだ、汚い」
紫帆が目を逸らし、布団から指を離す。
麻友の太ももの上に掛け布団が落ちた。そのわずかな衝撃の異変を察知した麻友が目を開く。
「うぅうう」
修学旅行初日、二日目とも、緊張してぐっすり寝れなかった。なんとなく寝ている感じはするけど、意識ははっきりしていて、時計を見るたびに一時間おきぐらいに目が覚めていた。そのたびに、尿意がなくてもトイレに行ったので二日とも失敗はなかった。
その反動なのか、三日目の夜は夢すらまったく見ないでぐっすり寝てしまった。普段ならトイレに起きる二時過ぎにも目が覚めなかった。そして……。 尻の忌まわしい感覚で身体は一度に覚醒した。衝撃で頭の回転も速く、即座にいまいる場所が、修学旅行で同級生と寝ている旅館の部屋だとわかった。(最悪だ……)
後悔と羞恥が全身を駆け巡る。目が重くなり、鼻の奥が刺すように痛んだ。麻友は涙の混じった水っぽい鼻水を隠すように下を向く。やどかりのように全身を布団で隠す。顔も布団の中に入れる。時間の経った強烈なアンモニア臭が鼻を襲う。
麻友は心臓を恐怖でばたつかせながら、箱に布をかけて、布を取ると箱のなくなっている手品を思い浮かべた。誰かが掛け布団を剥がすと、麻友の身体は消える、もしくはおねしょの地図が消える。そんなことが起きないかと、半ば本気で考えるほど追い詰められていた。
「咲子はまだ寝てるの?」
紫帆が凛菜に訊く。咲子はこの四人部屋のリーダーだ。
「うん」
「起こして」
オシッコ臭い布団の中で麻友は息を殺してそのやりとりを聞いている。
「咲ちゃん、起きて」
「おはよう。あれ、起床は七時じゃん。まだ早いよ」
「そうじゃないよ。とにかく起きて」
「もお凛菜、まだ寝せてよ」
「起きてよ、お願い」
「なんでえ」
咲子はそう言いながら顔に布団を被せる。それまで咲子と凛菜のやりとりを見ていた紫帆が、咲子を起こすために声を上げる。
「咲、起きなよ。麻友がおねしょしたんだよ!」
紫帆の声が麻友の胸を切り裂く。取り返しの付かないオシッコ臭い布団の中で身体を硬直させる。
「またまた」
咲子は布団の中でそう答える。
「ほんとなんだって」
紫帆は言いながら立ち上がり、咲子の掛け布団をめくった。
「本当なの?」
布団の中で身を固めている麻友の耳に咲子の声が届く。
「ほんとだよ」
紫帆の声が近くなる。麻友は掛け布団を脚で押さえ、強く握りしめた。
「嘘ならいいんだけど」
言いながら紫帆が麻友の布団をつかんだ。麻友は抵抗するように力を入れる。布団を剥がそうとする紫帆の手を麻友は布団の中で遮った。
「もう、麻友。出てきなよ」
紫帆の声がいらだったものになっている。それでも麻友は布団をつかんだ力を緩めない。目の前で同級生におねしょを見られるのが恥ずかしかった。
「もうっ」
紫帆は諦めたように手を離す。このまま布団にもぐり続けているわけにもいかない。麻友は布団の中から小声で言った。
「咲子、先生を呼んでくれないかな……」
「麻友、あんたガチでおねしょしたの?」
咲子は事実を確認するように、麻友のもぐっている布団に言葉をかける。 麻友は恥ずかしくて返事ができない。布団の中で自分のしでかした失敗の臭いが鼻に刺さる。とても隠し通せるものではない。
でも、先生ならなんとかしてくれると思った。他に頼れなかった。
「先生なんか呼んだら怒られないかな」
凛菜が心細そうに小声で二人に訊いた。
「だよね。ドライヤーだったら、わたし持ってるけど」
咲子が言うと、紫帆が首を振った。
「絶対無理だよ。そんなんで誤魔化したらもっと怒られるよ」
頭の中で紫帆は小学校四年生の時におねしょ布団をドライヤーで乾かそうとして、母親に叱られた記憶を思い出した。ドライヤーの熱風は臭いをきついものに変化させ、シミをシーツや布団に色鮮やかにあぶり出しのように浮かべてしまうことを紫帆は知っていたのだ。
「じゃあ、先生に言うしかないのかな?」
「白井先生に言うのがいいよ」
白井とは保健室の養護教諭。生徒の健康管理のため、修学旅行には帯同していた。
「お願い」
麻友が布団の中で言った。
小学校の時も保健の先生にお世話になった。白井先生ならなんとかしてくれると信じている。
「わかったよ。呼んでくるね」
咲子が布団にくるまっている麻友に言う。
ジャージやパジャマの寝姿のまま、三人は白井が泊まっている部屋に向かった。「熱が出たり体調を崩したらすぐに来なさい」と咲子は白井の部屋の番号を教えてもらっていた。
「先生」
白井の部屋の前で咲子がドアをノックする。
反応はない。
「きっと先生も寝てるんだよ」
言いながら紫帆がドアノブをひねると、ドアが開いた。予想に反して、部屋の灯りがついている。
「えっ! あなたたち!」
白井が驚いた声を上げる。
三人のほうがもっと驚いた。
紫帆を筆頭に、咲子も凛菜もぽかーんと口を開けている。
隣のクラスの奈津美がいた。ただ、いただけじゃない。下半身が裸になって鬱蒼と生えたヘアーを丸出しにして、半べそをかいていた。その横には使用済みと思われる紙オムツがくるんだ形で転がり、枕元には一目でそれとわかる老人用の紙オムツのパッケージが封を開けられて置かれている。
「ご、ごめんなさい」
奈津美と同じ小学校で、小学校の頃、いじめられたこともある凛菜が思わず声を上げた。
奈津美は三人の視線に気づいて、脱ぎ捨ててあるパジャマの下をくしゃくしゃのまま手でつかみ、股を隠す。
学年でも気が強いほうで、奈津美と対等に話せる数少ない女子の紫帆が訊く。
「奈津美もおねしょなの?」
奈津美は半泣きで赤くなった瞳に諦めの色を浮かべ、吐き捨てるように答えた。
「そうよ。言いふらすなら言いふらせばいいじゃん。軽蔑したでしょ」
白井が教師らしくなだめる。
「いじけないの。違うのよ、生理が始まっちゃたんだよね。あんたたちこそどうしたの? ノックもしないで部屋に入ってくるなんて失礼じゃない」
「ノックはしましたよ」
紫帆が不服な表情で言う。
泣いている奈津美を、ぐっしょりとおねしょで濡れたおむつを外しながらなだめるのに精一杯で、白井は気づかなかった。
白井は紫帆を睨む。
「とにかく、男子とかにからかわれたらかわいそうだから、いま見たことは絶対外では言わないでね。あなたたちだって、夜に突然生理が始まることはあるでしょ」
白井は、奈津美が部屋でおむつを付けていたのを生理のせいにしようと決めていた。今日が最終日でよかったと思う。消灯時間のあと、他の生徒が寝静まったのを確認して奈津美は白井の部屋にやってきていた。もし見られたのが、初日か二日目ならば、次の宿泊の時に白井の部屋に来る理由に知恵を絞らなければならない。それをしなくていいだけ、見られてもよかったと思う。
だが、三人は「中学三年でもおねしょをする同級生」がいることを、実際に知っていたので、白井の取り繕いは見透かしていた。
紫帆は、奈津美に釘を刺す。
「誰にも言わないけどさ、あんたも他の人がおねしょをしてもバカにするんじゃないよ」
白井の顔が歪む。
「だからおねしょじゃなくて、生理がはじまっただけなんだって」
紫帆が白井の部屋の時計を見る。6時26分。他の生徒が起きる七時までには処理をしてもらわなければならない。時間がない。
「どうなの?」
紫帆は部屋に踏み込み、両手で股間をパジャマで隠している奈津美の、寝癖のかかった茶色い髪を撫でた。
凛菜は指をくわえて見つめている。咲子はどうしていいかわからず、リーダーであるが、すべてを委ねるように紫帆を見守る。
「うちのことを汚いと思わないの?」
ピュアな物言いをして奈津美は紫帆を見る。凛菜はそんな奈津美を見たことがなかったから驚いた。
「別に。奈津美は奈津美じゃん」
奈津美が鼻をずずっとすする。照れたように頬を赤らめ、笑みを浮かべた。紫帆はその顔を見て納得したように頷き、きつい表情をしている白井を見た。
「先生、うちの部屋もひとり、やっちゃたんです」
白井は思わず志穂の濡れていないパジャマの股間を見る。
「え?」
「誰?」
奈津美がつい好奇心から声を上げた。紫帆が奈津美を見る。
「誰でもいいだろ。おまえ、からかったら、奈津美のこともみんなにバラすからね」
「佐藤さんです。布団から出て来なくて、たぶん、どうしていいのか、わからないんだと思います」
咲子が白井を見て言った。
「布団を汚しちゃったってこと」
確認するように白井が訊く。
「はい」
咲子が答える。紫帆が奈津美を見て、唇の前で人差し指を立てている。奈津美は頷く。
「しかたないわね。毎年、いるのよ。はあー」
ため息を吐きながら、白井は部屋の電話の受話器を取る。「9」の数字をプッシュして、フロントに電話がつながった。
「生徒がひとり、夜尿をしちゃったんですけど。すみません。……すみません」」
白井は電話口でしきりに謝っている。
「そうですか。助かります。ありがとうございました」
そう言って、電話を切った。
それから紫帆を見て白井が言う。
「とにかくね、布団はそのまま、他の布団と別にして置いててって。お部屋にお風呂はあったっけ?」
「ないです」
紫帆が答えた。白井は髪の毛を掻きながら、思いついたように奈津美を見た。
「じゃあね、奈津美ちゃん、あなたが麻友ちゃんをこの部屋に連れてきて。あとは奈津美ちゃんと先生でやっておくから、あなたたちは、ひとまずこの部屋にいて、麻友ちゃんが来たら自分たちの部屋に戻りなさい。わかった?」
修学旅行でおねしょをした子の気持ちはデリケートで尖っている。
だから、白井は奈津美に手伝わせ、その気持ちのわからない三人はたとえ同じ部屋でも、麻友が落ち着くまで顔を合わせないほうがいいと判断した。
廊下の足音が部屋の前で止まり、ドアの開く音が聞こえる。麻友はまた、くっさいおねしょ布団の中に身体を埋めた。
足音はひとりのようだった。
(きっと保健の白井先生が見に来てくれたんだ。白井先生……)
麻友は、部屋に入ってきた足音が白井であることを祈った。
「麻友さん、先生の部屋でシャワー浴びよ。迎えに来たよ」
声は白井ではなかった。とはいえ、紫帆や凛菜でもない。
(誰?)
麻友は布団から顔を出した。シャワーと言ったことで、おねしょをしているのはバレているのだろう。恥ずかしいけど、布団の中にいつまでもい続けるわけにもいかない。手品のように消えることは出来ないのだ。
「え?」
麻友は激しく瞬きをする。見る見る顔が紅く染まり、また顔を布団の中に隠した。
「起きなよ、麻友さん」
奈津美は布団の上から軽く叩く。麻友は布団を剥がされまいと力を入れて掛け布団をつかんだ。
「早く処理しないと、みんなが起きちゃうよ」
(なんで?)
ほとんど会話をしたことがなかったが、麻友は派手な奈津美をよく知っていた。悪そうであまりいい印象はない。凛菜が小学校の時、奈津美にいじめられたことがあるという話も知っている。
(終わりだ!)
奈津美に知られたなら、麻友の秘密はすぐに広まるだろう。また、小学校の時のように男子から「おねしょ女」とからかわれるかもしれない。女子からは同情の視線で見られ、距離を置かれるかもしれない。これから起こるであろう絶望の日々を想像すると、涙がぼろぼろとオシッコ臭い布団の中でこぼれる。
奈津美の耳にも麻友の泣き声は届いていた。
奈津美はこの修学旅行の三日間、明け方は泣きっ放しだった。家では週に一回するかしないかのおねしょだから、初日に先生の部屋に行ったときは、もししてしまってもいいようにと保険のつもりだった。家でいつも穿いているので紙おむつをすることに抵抗はなかったが、紙おむつを穿いても白井に向かって「念のためつけるだけだからもったいないよねえ」と話す余裕もあった。だが、その明け方、奈津美はまったく気づかなかったのにおむつの中は、ゼリー状におねしょが膨らんでいた。「みんなが起きる前にシャワーを浴びて部屋に帰っちゃいなさい」と白井に起こされたとき、保健の先生とはいえ、他人に夜のおむつがまだ外せないことを知られた恥ずかしさと、他に誰もしない中三のおねしょをしてしまったショックで、涙が止まらなかった。二日目こそは大丈夫だろうと思っていたのに、二日目もやってしまい、泣いた。今朝にいたっては、朝から飲み物を極力控え、ノドが渇いているのをうがいでごまかしながら堪えて寝たのに、その努力は報われなかった。悔しくて、情けなくて、恥ずかしくて泣いた。
奈津美は、麻友の泣き声にシンクロして微動している布団をさするように撫でた。
「麻友さん、気持ちはわかるよ。うちなんか、三日続けておねしょだから、今朝も先生の前でいっぱい泣いちゃったんだ。だから気持ちはわかるけど、みんなが起きる前に隠さないと、ね。起きよ。シャワー浴びよう。隠したら、誰もうちたちがおねしょしたなんて思わないんだから、ね」
(まさか?)
麻友は布団か警戒するように額と目だけを出した。
「奈津美さんもおねしょしたんですか?」
奈津美は照れたように頭を掻いた。
「うちは、おむつを持ってきてたから、布団は大丈夫だったけど、三日とも……」
麻友は布団から手を伸ばし、枕もとのスポーツバッグからタオルを出した。布団の中で腰にタオルを巻く。
(中三になって、おむつをしてる子がわたし以外にもいる!)
その気持ちは麻友を勇気付けた。病院で早川志穂理を見たときは、大人の女性なのにおねしょの癖があるなんて……と同情的な気分と、わたしも大人になっても直らなかったらどうしようと暗い気分になったが、同い年の奈津美が、おむつが必要なほどのおねしょの癖があるのは、麻友を勇気付けた。
「ありがとう、奈津美さん」
身体をタオルで巻いた麻友は掛け布団を剥がした。むわっとオシッコの臭いが布団の中の熱した空気と一緒に部屋を漂う。奈津美は思わず、布団の地図に目をやった。縦長に濡れている麻友のおねしょは長細く、それは南アメリカ大陸から切り外したチリの形を思い出させた。
「あんまり見ないでください。恥ずかしい」
奈津美の布団を見つめる視線に気づいた麻友が言った。
「ごめん。うち、布団汚したくないからおむつしてるんで、つい見ちゃった。でも、おむつのほうが恥ずかしいよね」
「わたしもうちではオムツですよ」
「麻友さん、敬語はやめても。うちも麻友って呼ぶから、奈津美って呼んで」
「いいんですか?」
そんな話をしながら、部屋を出て行く。紫帆と咲子、凛菜は白井のおごりで一階のロビーでオレンジジュースを飲みながら、ファッション雑誌を読んでいた。
白井は麻友をシャワーに入れたら、麻友たちの部屋に行って、布団を片付ける段取りを考えていた。
この日を境に、麻友と奈津美は、ほかの友人にはない絆で結ばれた親友になった。